森のイスキア3
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下に降りるとお昼の準備をしていた。野菜を切っている人、配膳の準備をしている人、焼き魚に付きっきりで何回も様子を見ている人、みんなそれぞれ役割があって、集中している。不思議な時間が流れている。
「お漬物を作りましょう」と言って、キャベツの切り方を教えてくれた。包丁はなるべく使わない。根元に包丁を入れその後は出来るだけ手で割る。一枚ずつ葉をはがして、繊維を壊さないように手でちぎって(さいて)いく。傷んだところはとる。
繊維を無理に壊さないようにするとつけた時に塩分が自然に入っていく。きゅうりは斜め切り。容器にキャベツを広げて入れて、きゅうりをのせ、塩をふる、の繰り返し。最後に重しをかける。
お手伝いさんが「重しの石がないので、これでいいですか」
「いいよ、これで。」「あらちょうどいいわね。うん水だと重さが自由自在ね。」
「せんせ、お魚これぐらいでいい?もうちょっと焼く?」
「煮豆のお皿とひじきのお皿どれがいいですかね」
「せんせ、おむすびの準備しておくね」
「ありがとうございます」いろんな会話が行きかう。
1つ1つの料理に心が行きとどいている。おろそかなものは1つもない。全部に手をかけている。そう感じた。すべての動きに無駄がない。初女さんが前、講演会の時に言っていたことを思い出した。
「関係ない」っていうのが1番ダメ。それは食材に対しても同じなんだ。食材も人と同じ、いのちをもつものだということが見ていて感じられた。
初女さんは、料理中(特におむすびを握る時)基本黙っている。何か聞かれた時に静かに答えるだけだった。集中している。隣にいて、オーラというかエネルギーというか何かを感じる。話を聞く時は話す人の目を見て静かに聞く。食材も一緒だと気付いた。食材と真剣に向き合っている。
丸く、真中がすこしくぼんでいる。2枚の海苔でピッチリと隙間なく包み、形を整える。海苔はご飯の蒸気でしんなりとしてなじむ。盆ザルに真っ黒なおむすびが並んでいく。タオルの上で呼吸しているように見えた。
お盆の上にたくさんのいのちが並んだ。ひじきの煮物、煮豆、漬物、卯の花と常備菜が多い。だから、品数が多く、とても豪華に見える。
初女さんは食事中も無駄に話したりはしない。何か聞かれたら答える。箸づかいが優しくて、ゆっくりと味わって食べている。私もなぜか自然にそうなっていた。がつがつ食べるのは食材に申し訳ないと思った。しょっぱいものと甘いものとそれぞれが主張しながらもお盆の上の全体で調和している。おむすびはかじるとほろっとくずれて、かじったところにはお米の1粒1粒が並んでいて、立っている。優しい味がした。海苔で覆われているから素手で持って食べられるし、くずれないから食べやすい。両手で包むように食べるからおむすびの力が口からだけでなく手からも伝わってきた。お客さんが言っていた。「ほんと、なんでこんなにほろっときれいにくずれるのかしらね。なかなかこうはいかないのよ。先生のちょうどい力加減がいいのよね」食材と真剣に向き合うから、それぞれが活かされる。私は作るところをずっと見ていたからよくわかった。
お昼に来たお客さんに話を聞くことができた。
- 秋田市から
10年ほど前に初めてここに訪ねて、ずっとまた行きたいなぁと思っていた。料理するのが大好きな友達と行きたいねと話が合い、空き具合を聞いたところたまたまOKをいただいて友達と2人で来た。周りの雰囲気がずいぶん変わったが、中は全然変わっていなくてうれしかった。お昼ご飯をいただいて、懐かしさで心がいっぱいになった。感謝の気持ちとこれから元気にやっていけそうだと勇気をもらった。ここのご飯は本物の味だと感じた。いつもは間に合わせでこんな感じかなってやってきたなと感じた。
- 沖縄から
本を読んで、会えたらいいなと憧れていたところ、村上さんと意気投合し道が開かれた。都合がちょうどついて神様の導きのように感じている。初めて来たけど懐かしい心地がする。みんなで食事をして手をかけていただいた食事、心がこもったおむすびを体に取り込んだ。ここのおむすびは生きるためのもの、コンビニのおにぎりはお腹を満たすものだと思う。
- ガールスカウトの初女さんの教え子だった方
先生と会いたいと顔を思い浮かべてきた。つきあいは40年。元気を確認し、また原点に戻ってみたいと思ってきた。先生の料理は人の心に気をつかう。人が食するものの心の見方に気をつかう。若い時にキャベツの切り方をほめられたのが忘れられない。やっぱり先生だな、生きるものに対するまなざしが違う。食べる時間を配慮して塩の加減をしたり、食材に対しての配慮、向き合うことを学んだ。昔から先生は周りに人をひきつける香をはなっていた。なんか違った。
来た人は食事をしてゆっくりしたら温泉に入って、裏の森を散歩してリフレッシュ。すっきりして元気に帰って行った。