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食べることや自然が大好きで夢見がちな大学院生の日常を綴ります。

日本の食・おむすびの起源

おむすび(おにぎり)は炊いた米に味をつけたり、具を入れたりして三角形・俵型・球状などに加圧成型した食べ物である。通常は手のひらに載る程度の大きさにする。

 

弥生時代

後期の遺蹟である杉谷チャノバタケ遺蹟(石川県)から1987年12月におにぎりと思われる米粒の塊が炭化したものの化石が発見されており、日本最古のおにぎりと言われている。これはおそらく蒸された後にやかれたものとされ、このころはお米を蒸して食べていたと考えられる。やがて、鉄釜の普及により、お米を炊くようになる。

 

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出土された、日本最古のおにぎり


1987年に弥生時代の遺跡、杉谷チャノバタケ遺跡から「日本最古のおにぎり」の塊「チマキ状炭化米塊」が出土して以来、旧鹿西町はおにぎりの里として親しまれてきた。

www.town.nakanoto.ishikawa.jp

平安時代

蒸したもち米や玄米を握った「屯食」と呼ばれるものが、宮中での催しなどの際にふるまわれたという記述が「源氏物語」にある。「屯」は握る、押さえる、の意味がある。相手が下級役人で、人数も多数だったことから、器に飯を盛らずに握って間に合わせたものが屯食の始まりだったといわれる。この、「屯食」が今のおむすびの原型だと考える。

戦国時代

おむすびは戦の携行食として活用された。戦の勝利を願う縁起担ぎとして「握り飯」と称されていた。うちの人が願いを込めて握るのが元だったわけである。

江戸時代

今のように米を炊飯して食べることが確立したのはこの時代である。都市部ではコメが流通し、庶民も基本は米を食べるようになった。菜種油の普及により、夜暗くなってからも作業が出来るようになったことで、一日2食から3食になった。玄米食から白米食に変わり、出てくる米ぬかの再利用として「ぬか漬け」が考えられた。当時の食事は飯、みそ汁、漬物、納豆、豆腐、メザシなどである。屯食と呼ばれた携帯食が、もち米からうるち米になり、海苔をまいた今の「おにぎり」が出来たのは江戸時代中期と言われる。旅行客はおにぎりを竹の葉で包んだ弁当を風呂敷に包んで肩や腰にかけた。江戸時代後期に歌川広重に描かれた「東海道五十三次細見図会」には旅人がおむすびを食べている絵がある。

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歌川広重東海道五十三次細見図会』 《 藤沢 》

www.benricho.org

明治時代

文明開化により西洋料理が入ってきて、上流階級と知識人を中心に浸透した。さらに和洋折衷である洋食が生まれる。明治時代後期になると、洋食は、米飯に適したおかずとして、また気楽な西洋料理として、箸で食べることができ、栄養的にも優れているという点で、外食において普及し始める。おにぎりが商品化したのもこの明治時代で、宇都宮駅で黒ゴマをまぶしたおむすび2個とたくあんを竹の皮に包んだ物が販売された。これが日本最初の駅弁と言われている。明治22年に、山形県鶴岡町の私立忠愛小学校で貧困児童を対象に無料で学校給食を実施された。献立はおにぎりと焼き魚、漬け物だった。これが日本の学校給食の起源とされる。(国学校給食会連合会HPより)

昭和時代

戦争が始まると、「ぜいたくは敵だ」というスローガンで食糧の制限がされ、白米食は禁止された。空襲が多くなってくると、避難所では、隣人組・婦人会によるおむすびの配布などもあった(炊き出し)。広島の被爆翌日から近隣の町村から広島市へ炊き出しでおにぎりが運び込まれた。これは“握飯計画”と呼ばれていて、広島市長があらかじめ「広島市がやられたら周辺の町村がおにぎりを作って運んでもらう。使った米は後で支払う。」と頼んでいたのだという。この“握飯計画”のおかげで、被災後十日間は、市民の主食に関かんするかぎり、全く心配せずにすんだという。(浜井信三著「よみがえった都市—復興への軌跡 原爆市長 復刻版」より)

終戦直後

それまでの移入米も途絶え、さらには戦争から兵士が帰ってきたこともあり、食糧事情は戦時中よりも悪化し、食料を高値で売買するヤミ市がにぎわった。

復興

昭和22年に学校給食が復活する。当時はおかずだけで、主食(米)は各自持参だった。昭和25年に米国寄贈の小麦粉によりはじめて完全給食が実施される。子供たちからパン食が食生活の中に定着するようになった。学校給食制度上に米飯が正式に導入されたのは昭和51年のことである。(国学校給食会連合会HPより)

昭和30年ごろ、日本は食料難を乗り越え、高度経済成長期を迎える。家電三種の神器(冷蔵庫、テレビ、洗濯機)や炊飯器の登場で、家事の機械化が進んだ。また、核家族の増加によって家庭の手作りが懐かしいものになり、「おふくろの味」が生まれた。

1970年(昭和45年)は、「外食元年」と呼ばれた年で、この年以降、ファミリーレストランやファーストフード店が、続々と出てきて、外食が身近な存在になった。翌年には日本初のコンビニエンスストアが登場した。おにぎりと海苔の別包装フィルムが開発され、おにぎりはその主力商品になった。大量生産の“押し型の成型”のおにぎりが誕生したのである。外で購入したものを家で食べる「中食」や、一人で食事をする「孤食」や、一人ひとり違うものを食べる「個食」という言葉が生まれた。お金があれば食べたいものをいつでもどこでも食べられる“飽食”の時代が始まった。

現在も外食産業は変化しながら人々を魅了している。海外の飲食店の進出もあり、世界各地のあらゆる料理が楽しめるようになった。食べ過ぎや栄養の偏りによる生活習慣病の増加は、今の日本の大きな課題となっている。また、特に若い女性の中では、炭水化物ダイエット(炭水化物を食べない)や同じ食べ物だけ食べるダイエットなど過剰な食事制限によるダイエットが出回っている。“ご飯は太りやすい“といううわさも出て、ご飯を敬遠する人もいる。

日本の食文化に欠かせないご飯

このように日本の食は米を中心に時代とともに大きく変わって来た。日本は島国で他国と離れているため、山海の食材が豊富で独自の食文化が形成された。地域が山・川で分断され、その地域固有の食文化がある。湿気が多く、食べ物が腐りやすいことから発酵食品や佃煮など腐りにくく加工した食品も豊富である。山海の幸、漬物、発酵食品をおかずにご飯を食べる、というのが日本の食の基本である。

日本人の食べているジャポニカ米は粘りが強く、握ると米同士がくっつく。コンパクトで持ちやすく食べやすいおむすびは昔から日本人を支えてきたものである。また、ご飯は和も洋も合うので、具は鮭、ツナマヨ、昆布、おかか、梅干しなどの定番から、最近では肉巻きおにぎりや煮卵が入ったおむすびなど変わり種もありバリエーションが豊富である。日本各地や、それぞれ家庭でいろいろなおむすびがある。

おむすびの日

1月17日は「おむすびの日」である。阪神淡路大震災の時に不安のどん底にいた被災者は、ボランティアによる炊き出し(おむすび)に助けられたことから制定された。いつまでも食料とりわけ米の重要性、ボランティアの善意を忘れないために、と制定された。6月18日は「おにぎりの日」で日本最古のおにぎりの化石が発見された時に、鹿西のろく(6)と、毎月18日の「米食の日」から、制定された。